歴史

ヴィンチェンツォ・ランチア時代

設立者は、ヴィンチェンツォ・ランチャ(Vincenzo Lancia 、1881年 - 1937年)である。

モータースポーツ好きのヴィンチェンツォは、裕福な缶詰スープ会社の家系に生まれたので、車に若い頃から接することができた。一時はフィアットの契約ドライバーとして活躍し、レーシングドライバーとしての才能を見せその後は研究開発部門の要職に就いたが、それに飽きたらず「自由に考え、自由に創るために」、1906年に自ら自動車メーカーを設立してオーナー兼技術統括責任者となり、ギリシア文字のアルファ、ベータ以下で始まる名称のモデルを生産した。

ランチアの名が世界各国で知られるようになったのは、1922年登場の、モノコック構造のボディに前輪独立懸架を組み合わせ、先進的なオーバーヘッドカムシャフトのエンジンを搭載したラムダ(ギリシア文字のL)によってであった。その後は旧ローマ街道に因んで命名されたアストゥーラ、アルデナ以下各種のモデルを開発・生産し、上質なハイスピード・ツアラーのメーカーとなることを志向した。

ヴィンチェンツォの遺作となったのは、1937年にデビューし、世界で初めて風洞実験によってデザインされたと言われる流線型ボディ、SOHC狭角V4エンジン・四輪独立サスペンションを持つ、アプリリアであった。アプリリアは抜群のロードホールディングと優れた加速性で「ラムダ」以来の傑作車とされ、当時のアルペンラリーやモンテカルロ・ラリーで活躍、第二次世界大戦後の1948年まで生産された。

ジャンニ・ランチア時代

ヴィンチェンツォ死後は子息のジャンニ・ランチアが会社を継承。ジャンニは戦後、アプリリアの後継車開発のため第二次世界大戦前にはアルファ・ロメオの各GPマシーンを設計したヴィットリオ・ヤーノを招聘、世界初のV型6気筒エンジン、デフとギアボックスが一体化したトランスアクスルを持つ「アウレリア」が1951年に誕生した。「アウレリア」のクーペはGTと命名され、グラントゥーリズモのパイオニアとなった。

また、元々レーシングドライバーであったにも関わらずモータースポーツに進出しなかったヴィンチェンツォ時代とは対照的に、ジャンニ時代のランチアは、「アウレリアGT」やそれをベースとした「D20スポーツカー」をミッレミリア、タルガ・フローリオ、ル・マン24時間などに出場させた。さらに1954年には別項にある通りF1にも進出した。

ヴィンチェンツォ・ジャンニ親子が経営していた1950年代までのランチアは、採算を度外視した技術偏重型の経営であったとされる。しかし、やがてそれは経営悪化を招くことになり、1955年にランチアは倒産、創業者一族は経営から手を引き、ヤーノも退社した。

カルロ・ペゼンティの時代

新たにランチアの経営権を取得したのは、建設やセメント業で成功していたカルロ・ペゼンティであった。ペゼンティはランチアの伝統を良く継承し、ヤーノに代わり主任設計者としてアントニオ・フェッシアを招聘、1960年代にかけての「フラミニア」、「フラヴィア」、「フルヴィア」の設計を委ねた。フラヴィア、フルヴィアは前輪駆動を採用するなど各車とも先進的な技術と高い工作水準、そして特にスポーツモデルの美しいデザインが評判を得た。しかし経営は再び悪化、1969年にはフィアットに売却されることとなった。

フィアット・グループの一員として

1969年にフィアット傘下に収まった後、1972年にはフィアット製エンジンを持つ「ベータ」が登場、1977年に「フルヴィア」が生産中止されて以後はそれまで培ってきたブランドイメージを生かし、フィアットにおける高級車部門という位置づけでのモデルを生産している。その一方で、アルファロメオのフィアットグループ入りの前後までは「ストラトス」、「ラリー037」、「デルタ・インテグラーレ」など、WRCで勝つために開発されたホモロゲーションモデルを生産していた経緯により、それらの強烈なスポーツイメージが今もなお健在である。